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「校長、そろそろ」
「ああ」
 次の予定はなんだったか、ふらつく頭で予定を思い出しながら立ち上がる。しかしそもそも覚えようとしてなかった頭が思い出そうなんて土台無理なことに気づき、早々に諦め傍らの秘書にどこの会議か尋ねると、
「会議はありません」
 と返された。
「・・・あれ、お前今なんか予定あるって・・・言わなかったか」
「いいえ」
「聞き間違えたか?」
「いいえ」
「・・・?」
「予定があるとは言っておりません」
 ゆっくりと秘書を見やる。いつもの真顔が見返して来て、じゃあ何か予定があるのかと聞けば予定は何もないと返ってきた。
「・・・お前さっきなんか言ったよな?それは間違いないよな?」
「ええ」
「なんて言った?」
「校長そろそろ、と言いました」
「・・・」
 秘書は顔色ひとつ変えずに立っている。そこから視線を外して窓から沈みかけた陽を眺めた。目に染みる。すぐに校長室に視線を戻すと、なんとも言えない顔をしてソファに座るマジクと目が合った。
「お前は」
「僕にふらないでください」
 素早く片手を上げたマジクに遮断され、何の根拠もない嫌な予感がする中、秘書に視線を戻す。
「・・・つまり何がそろそろなんだ?」
「私に校長成分が足りないので補充をさせてください」
「・・・」
「・・・」
 マジクの冷たい視線が刺さった気がした。いや、実際に刺さっているような痛みを横顔にヒシヒシと感じながら平静を保った顔を秘書に向ける。
「つまり?」
「キスさせてください」
「・・・」
 痛い。横からの視線がすごく痛い。半端ない。しかしこれだけは言わねばならないと、校長室の主――オーフェンは拳を握る。
「なあ、俺の気のせいじゃなければ今までお前とそんなことしたことねえよな?」
「そうですね」
「聞いたな!?今の聞いたな!?」
 秘書を指差しながら勢いよくマジクを振り返ると、先ほどよりますます胡散臭げな――自分の布団の中にねずみが入っていたかのような――顔をしていた。
「違う!こいつとは何も無い!」
「そんな浮気の言い訳を僕にしなくても」
「だから違うって言ってんだろ!」
「オーフェン」
 耳慣れた声の耳慣れない単語に、腕や首にゾワゾワと鳥肌が立つ気配がした。振り返り、真顔の秘書をまじまじと見やる。
「今どうして・・・名前で呼んだ?」
「恋人の場合は名前を呼び合うと言っていたろう」
「!?」
「おおおおおおおオーフェンさん!?」
 背後から動揺したマジクの声が聞こえた。その動揺っぷりは上擦った声や思わず立ち上がったのであろう気配でもなく、名前を呼んできたことだけで充分伝わったわけで。
「なんで俺とお前が恋人なんだ!?」
「? 君は私を名前で呼ぶだろう」
「そんならマジクだって名前で呼ぶぞ俺は!」
「オーフェンさん!?」
 頷いた秘書が、二人の動揺を非常に不可思議なものを眺めるような――オーフェンにも覚えがある、ただでさえ甘い桃を何故甘い砂糖水に漬けるのか考えたときにしていた――顔で、
「君には恋人が多くいるのだと思っている」
 という言葉が聞こえたか聞こえないかのうちに、オーフェンは右手を握り締め秘書の頭に叩き付けた。鈍い音が聞こえ、目の端に映っていたマジクが一瞬首をすくめる。
「――お前はさっさと一般常識を覚えろ!!」
「何が間違っていたのか教えて欲しいのだが・・・」
 確かに以前、恋人は名前を呼び合うと言った。そう教えた記憶があるオーフェンは一度頭を抱え、マジクに視線を投げた。おずおずと挙手したマジクに言ってみろと告げると、ぼそぼそとした声が答える。
「恋人は普通一人だということや、結婚しているときは結婚相手が恋人ということを教えるのがいいのでは」
「採用」
 つまりそういうことだ、と言いながら振り返った先の秘書は、殴られた側頭部を押さえながら立ち上がるところだった。ふらついた体を一歩で建て直し、いつものようにすらりと立つ。
「しかしそれでは名前を呼び合うという行為が・・・」
「よし、わかった。じゃあこうしよう。・・・・・・ベッドの中で名前を呼び合うのが恋人だ」
 ブフッと――あまり上品ではない音が聞こえて、オーフェンは振り向いた。
 半眼で見やる先には慌てて口を押さえたもののこらえきれずに頬が痙攣している元弟子がいる。こっちにも一発食らわせた方がいいだろうかと拳を握ったところで、秘書が手を上げた。
「質問してもいいだろうか」
「なんだ」
「私が君の恋人になりたい場合はどうすればいい?」
 背後からさらに笑い転げるような堪えきれない何かを吐き出した音が聞こえて、とりあえず手近なところにあった分厚い本を投げつけると静かになった。
「俺はもう妻がいる」
「恋人は一人じゃないこともあるのだろう?」
「そういうのはな、浮気って言っていいことじゃねえんだ。いや、良いってヤツもいるが少なくとも俺はそうは思わない」
「そうなのかい?」
「そうだ」
 秘書は顎に手をあて考える仕草を見せた。こんなところに人間らしさを発揮されても複雑な気分ではあるが、すぐに顔を上げた秘書を見て、もう少し人間らしい迷いってものを持って欲しいとも思う。
「秘密にすれば問題がないのでは?」
「は?」
 何がどうなって何を秘密にしろと言っているのか、一瞬悩んだ隙に秘書が颯爽と近づき唇を重ね、そして離れた。そのまま何事も無かったかのように内ポケットから取り出したスケジュール帳をめくりこの後の予定を淡々と読み上げる。その秘書の声が本日の帰宅予定時間を読み上げ終えてから、硬直する体を動かすと分厚い本を手に持ったまま固まっていたマジクと目が合った。
 しばらくマジクと秘書を見比べて、ふと自分の服が乱れていることに気づき、直す。
 椅子に座り、横に立った秘書に直近の予定を聞く。あと3分で会議室で予算の修正会議が開かれるらしい。
「・・・マジク」
「・・・はい」
「忘れろ」
「忘れます」
「・・・どうしましたか?」
「お前ももう少し・・・いや・・・わざとなんだろ?わざとだと言ってくれ」
「わざとです」
「だよな!」
「何の話ですか?」
 ――このまま会議に行けるのだろうか。
 校長室の主は泣きそうな心を持て余しながら顔を伏せた。
 
 
 
 
 
 くろまるさんへ捧ぐ
 精一杯の甘いボリオーです。
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