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「生爪剥がれたんだ」
「見せてみろ」
「何が?」
「右か?左か?」
「ん?」
 噛み合わなかった会話を打ち切って、言い直した。
「お前の中指の爪が紫に見えた」
 ああ、と返す相手の頷きを見て、自分の意図が伝わったことを確信した。同時にだいぶ疲れていることを自覚する。
 黒髪の、目つきが良いとは言えない顔立ちが、寝不足のせいもあってさらに凶悪になっていた――のは今日の午前中までだ。日が暮れかけた今、目は座っているような半分閉じたような微妙な隙間を開け、瞬きをすると五回に一回の割合で走馬灯のような夢を見せてくる。
「――だ」
「あ?」
 目の前の草を払い除けながら聞き返した。今まさに桃缶を口に入れようと――もちろん夢のような幻覚の中でだが――していたところだったので、出ていたよだれをこっそりと拭いて振り返る。
 唇に傷のある男が、自分と同じように草の根を掻き分けながら歩いていた。長い髪はボサボサだし葉っぱや細い枝までくっついている。自分も似たようなものだろう。
「枝が爪と指の間に入って出血したんだ」
「なんだそれ、痛そうなこと言うなよ。想像すると俺まで痛いだろ」
「あまり気にならなかったから治していないが」
「治しとけよ」
「気が向いたら」
 手を寄越せ、と言うと、男――エドは何時もの無表情で手を差し出してきた。治しておけ、は酷なセリフだったろうか。この男が魔術を取り戻してからまだそう経っていないのに。
 ああ、腹が減った。
「・・・おい」
 トトカンタでコギーが食べた骨付き肉の余りの肉をこそいで食べていた時のような。
「魔王」
 それにしてはこの肉は青臭い。草を食った時のことを思い出すなぁ。
「・・・い加減に休むぞ」
 ズボッと口の中の肉が奪われてようやく気がついた。ヨダレでベトベトな上に血が滲んだ手を振って、エドが目配せをする。その方向からは水の気配がした。
「すまん」
「まあ…腹が減ったな」
「魚いるといいな」
「日が沈み切る前に着こう」
 方向を変えて足早に進む。今度はエドが先に進み枝や長く伸びた草を掻き分けるので、だいぶ歩きやすい。
 そう歩かないうちに水辺に出た。河原のある理想的な場所だった。
 おもむろに歩幅三つ分の川の水を浮かせて、河原に落とした。水はすぐに霧散して数匹の魚だけがビチビチと跳ねる。一瞬切り取られた川は何事もなかったようにまた流れた。
 無表情なのに呆れたような雰囲気を隠さないエドが、拾っていた枝木に火を付け、魚を串刺しにして火のそばに突き刺した。どうやら魚は8匹獲れたようだった。
「・・・水浴びをしたいんじゃなかったか」
「ああ、うん」
 動物の気配がない。だいぶ人里に近くなったのだろう。
 上着を脱いだ。靴を脱ぎ散らかして、とりあえず上着を川の水で洗う。振り返ると、だいぶ薄暗くなって来た空間に、火が人と魚の影を浮かび上がらせていた。
 適当に洗った上着を乾かして適当にたたみ、靴の上に置く。
 ズボンに手をかけてから視線を感じたが、無視して下着ごと脱いで同じように洗い、乾かした。その頃にはもうすっかりあたりは暗い。
 最後のシャツを脱ぎ、川に足を突っ込む。膝ほどまでの深さまで歩いてからしゃがみ、シャツで埃と汗まみれの体を洗った。
 汗で張り付いた髪をつまむ。シャワーがないのはいいが、深さもない川で頭を濯ぐのは面倒だ。
「物語の魔法みてえな魔術があればいいのにな?」
 振り返ると、魚をひっくり返していた男が若干呆れたような声で、
「物語の中の魔王になった男が言うのか」
 と呟いた。
 それもそうだなと、頷きを返してから飛んできたものを受け止めた。革のにおいはするが別の感触のそれを広げると、子供の頭ほどの袋だった。
「なんだ?」
「水を入れるのに使うといい」
 腰に巻きつけていた、手袋か何かが入っていた袋だろう。礼を言って川の中に沈めた。背中から刺さる視線は気のせいだと、頑なに思うことにして。
 頭の水気を飛ばしながら火のそばへ戻る。突き出された魚をがっつきながら、既に4匹を腹におさめた男に問いかけた。
「今日はどうする?」
「人里は近そうだし、とりあえず急がなくても平気そうだな」
「まあ俺らは平気だな。ただ残してきたヤツらのほうがなあ」
「・・・詠唱中に襲われて誤った場所へ飛んでしまったことは仕方ないと思っている」
「何だ急に」
「ただそれにお前を巻き込んでしまったことは・・・申し訳ないと思っている」
 珍しく視線をさ迷わせながらエドがそう言った。なんとなく返す言葉がなくて、絡んでいる長い髪を指差しながら、とりあえずお前も洗って来いと言えば存外素直に水浴びをしに行った。
「まあ、この距離の移動だし・・・俺が一緒だったからお前を喪わずに済んだと思えば」
 髪を洗う男の背中を眺めながら呟いて、足元の枝を火に放り込んだ。煙を目で追うと、その向こうに輝く星空の一部が不自然に点滅しているように見える。
 全裸のまま戻って来た男の、頬に伸ばされた手の先のマニキュアが塗られたような色の爪を見て治療をしていないことを思い出しながら考える。視界の端に映ったかなり遠くの空からかなりの速さで接近してくる何か――ひとついや一人しか思い当たらないが――がここにたどり着く前に、この男に服を着せ治療までできるものだろうか、と。
「ま、何とかするしかねえんだろうな」
 訝しげな表情のまま顔を寄せてきたエドと唇を合わせながら、あと何秒こうしていられるかを考えた。
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