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癖だった。
左手――というよりは左手首を振る。
いつもの重たさがないので、肩透かしを食らったような感触に苦笑する。
腕時計は修理に出したのだった。
1日つけなかっただけなのに、止まっていた時計は動かなかったのだ。
以前1週間もつけなかったときは、つけて腕を振ればしっかり動き出した。
そろそろメンテナンスの時期だったのだろうか。
考えてみれば一度も手入れをしたことがないし、方法も知らない。
必要なのだと思ったことさえなかった。
懐中時計を愛用しているので腕時計はつけないことが多いのに、
つけることができないとなると途端にむず痒くなる。
ただそれだけなのだが。
「痙攣でもしたのか。何か神経系の病気でも?」
違うと言っているのに、癖のように出てしまう動きで信用できないらしい。
時計をしていないからだと言っても、
「腕時計をしているところなんて見たことがないが」
否定は出来ない。
そもそも出かけるときにはしないのだ。
家の中でだけつけるほうがおかしいだろうか。
しかし懐中時計はコートか上着につけているのでで、自宅ではあまり使わないのだ。
「ふむ。触った感じ異常はないようだが」
手を振り払い、だから言ったろうと相手を睨む。
顔が赤いと言われたのは怒りと酒のせいにした。
気になるのだと言われ手を取られるが、それが嫌なわけじゃない。
自分より低い体温の手がひやりと撫でる度に心地よく感じる。
「え?帰るのか?・・・ちょっとレントゲンだけでも取らせろ」
本当に違うのだと、離したくない腕を再び払いのける。
あっさりと引き下がった手の持ち主が肩をすくめて別れを告げた。
「じゃあ今度見せてよ、時計」
修理に出しているのですぐには見せられないといえば、
「残念だな」
と小さく呟いた。
聞き間違いだろうと相手を見れば、いつもの人を小馬鹿にしたような顔だ。
「会う口実くらい作らせてよ、先生」
ぐらりと視界が揺れた。
酒のせいだ。
「ねえ、先生。今泊まってるホテル近いんだ。広いから先生も泊まれるよ?」
おいでよ、と白い悪魔が囁いた。
馬鹿みたいについて行ったらこの男はどんな反応をするのだろうか。
ノーマルの男だ。
男が男を欲しがっていて、しかもその対象が自分だとは思ってもいないだろう。
ましてやその感情を抱いているのが私だとは。
無意識に手首を振った。
男が長髪をかきあげながら席を立った。
カウンターに二人分の料金を置き、足元に置いていた鞄を持つ。
顎で店の扉を示した。
私は肩をすくめて見せて、立ち上がった。
心配性の男の相手を仕方なくするように。
夕方と呼ぶには遅く、夜と呼ぶには早い半端な時間に飲み屋街を歩く。
周囲を見ても男二人で歩く姿は珍しくもなんともない。
ただ一人は痩せ型の背の高い死神のような男で、もう一人が――私だ。
人目を引くなというほうが難しいだろう。
時折、風に揺れた長髪が肩を撫でた。
男二人が並んで歩くには近いだろうか。
半歩、離れた。
黒い死神がちらりとこちらを見る気配がした。
数分で車寄せまである、ホテルの前につく。
店を出たところからもずっと見えていた、見るからに格式の高いホテルだ。
安いビジネスホテルにでも行くと思っていたので、ホテルを見上げて少し躊躇した。
「先生、どんな酒があるか心配でもしてるの?」
たぶん先生が好きなものもあると思うよ、と言いながら男がドアマンへと近寄った。
笑顔で大きなドアを開ける青年の前で男は振り返りニヤリと唇の端を吊り上げた。
男の思惑が自分と同じはずもないのに、帰るなら今だと言わんばかりの笑みに汗が出た。
疚しさを見透かされているようで、足が動かない。
左腕が痙攣のようにぶるりと震えた。
「やっぱり腕、おかしいんじゃないの?」
男が右腕を差し伸べた。
たった5メートルほど先から延ばされた手に歩み寄る足は綿の上を歩くようだ。
考えてみれば男が男にエスコートのように手を差し出す姿はおかしいはずだが、
死神のような男の後ろに控えているドアマンは微笑を崩していない。
それどころか尊敬の眼差しだ。
ドアマンから死神に視線を戻す。
手を伸ばせば男の細長い指がついた手のひらに手が届く、そんな距離で足を止めた。
流石に――それはおかしいだろう。
「――ここのホテルの支配人を治療してね」
差し出されている長い指に外科医特有の痕を見つける。
死神の前に医者であると、昔言った手だ。
「大丈夫。今のアンタは病人にしか見えない。医者の助けは当然だろ?」
確かに疲れたような顔をしているのだろうと思う。
男はそういう理由で自分を連れて来たのだしそういう理由で手を差し出しているのだ。
また左腕が震えた。
その腕を持ち上げて手を重ねる。
何故か先ほどと違い温かい。
もっと冷たい手だったはずだ。
「緊張でもしてるの?手が冷えてるね」
握られ、引かれる。
笑顔のドアマンに導かれてホテルに入った。
自分が宿泊先に選択することがないだろうホテルのロビーは天井が高い。
人一人の背丈ほどはあるのだろうシャンデリアが、遠いところで煌々と光っている。
「ドクター。お帰りなさいませ」
「うん。客人を連れて来たんだ。しばらく治療するから呼ぶまで来ないでね」
「かしこまりました」
だいぶ慕われているようだった。
フロントもベルボーイも、親しげな表情で応対していく。
大抵人を驚かせる自分の風貌を見ても、微塵も表情を崩さない。
酷く心地悪かった。
「ここの支配人はね、すごく従業員から慕われていたんです」
だからその支配人を治療した俺を神様のように扱うのさ。
当然のように最上階の、たったひとつしかないドアの前へ通される。
軽やかなお辞儀の後に立ち去った青年の後姿を眺める。
伸びた背筋がこの仕事への誇りを感じさせた。
「部屋が多くても一人が寂しいだけでね」
開けた扉の中に引きずり込まれ、途端に何かにぶつかった。
目の前に見えている白い光景はありえない光景なので――口の中から出て行った舌が唇をなぞっても動けないでいた。
「そういう意味で、ついて来たんでしょ?」
離れた青白い顔が愉快そうに目を細めた。
私のリボンタイをほどきながら、下手な誘いに上手に乗ってあげたでしょ、と囁く。
誘ったつもりは全くない。
何故か上機嫌な死神は人の魂を吸い込むように目を覗き込んでくる。
「・・・まさかとは思うけど間違っていたかい?」
襟を寛げたところで、細く長い指の動きが止まった。
乾きかけていた汗が再び出てくる。
もしかしてあのまま店で酔いつぶれたのではないだろうか。
これは夢で、今頃目の前の男は一人でこのホテルに戻っているはずだ。
酔いつぶれた私を置いて。
「おい、聞いてるか――男相手は初めてなんだ。合意でないなら帰っていいよ」
ひとつしか見えない目が困ったような表情を浮かべる。
夢では、ないのだろうか。
手を伸ばして白い髪を掴む。
男は口を笑みの形に変えた。
自分の髪よりも柔らかかった。
こんなことを自分が知る男が許すはずもない。
――恐らく最初から夢なのだ。
あるはずのないことをこんな夢に見るほどに自分は溺れているのだろうか。
「ねえ、先生。ベッドに行こうよ。ここがいいなら別だけど」
顔を合わせれば喧嘩ばかりの自分たちがそんな仲になれるはずもない。
背を向け歩き出した男の後をゆっくりと追いかける。
ポケットに突っ込まれていたリボンタイごと、シャツを床に落とす。
振り返った男が意外そうな顔をして、いつもの意地の悪そうな笑みを浮かべる。
初めてみる表情よりも安心するのは何故なのだろう。
「時計はいつ直るの?」
ベッドに座った男がまた手を差し伸べながらそんなことを言う。
引換え票に書かれていた日付を思い出せば、それは明日だと男は言った。
「ねえ、明日一緒に取りに行っていい?そうすれば先生、今日が夢だとは思わないでしょう」
座った男に腰を引き寄せられた。
見慣れた体の継ぎ目を男が舌でなぞる。
眼帯を外してもいいだろうか。
いや、外すよりはそこに口付けをしたい。
「ちょっと先生。これでも俺イッパイイッパイなんだからあんまりかわいいことしないで?」
唐突に腰を引かれてベッドに倒される。
なんと都合のいい夢か。
このまま覚めなければいいのに。
飲み過ぎたのか変な夢を見た。
見慣れない天井に不安になり体を起こす。
覚えのない部屋とベッドはやけに大きい。
体を見ればシャツとズボンは脱いでいるが、下着はそのままだし違和感もない。
何処までが夢で何処までが現実なのか。
「起きたの、先生」
酷く不機嫌そうな声がした。
見ないようにしていた隣に半裸の男が、声と同じく不機嫌そうな顔で横たわっている。
「覚えてるかわからないけど、昨日の先生ちょっと酷くなかった?」
一緒にベッドに入るような仲になる夢なら見た。
そう言うと、男は意外そうな顔をする。
「なんだ、覚えてるんじゃない。てっきりそれも忘れてるのかと思った」
それとは夢のことだろうか。
「夢・・・夢ねえ。そうだよねえ。臨戦態勢の男一人残して寝ちゃうんだもの」
先生も男ならそれがどれだけ辛いかわかるでしょ。
寝ているときもつけているのかわからない眼帯の横からきつい視線が送られる。
反射的に謝ると、男は体を起こしながら何処の店?と言う。
何のことかわからず聞き返せば、左の手首を指がなぞった。
「今日でしょ?」
ぞわりとした感触に顔を上げる。
眼帯が髪に隠され不遜な笑みを浮かべたその顔に何かを思い出しそうになる。
遠い昔のことに思考を巡らせると、男が不満そうに口付けを求めてきた。
「ベッドで別のことを考えるなんざ、人が悪くないかい?」
結局時計を取りに行ったのは予定日の翌日だった。
学生時代から持っているがそのときにもたまにしかつけなかった黒いベルトの時計はチチチチと秒針が細かく動いている。
何かを、思い出しそうな。
「で、やっぱりつけないんだ」
箱に入れて蓋を閉じる。
思い出せないなら思い出さないほうがいい。
そんな記憶は山ほどあるのだから。
「え?帰るの?ああ――お嬢ちゃんがお待ちかねか」
ついてくるつもりなのかと問えば、まさかと言った。
「彼女と俺は言わばライバルだからね」
この男は、意味がわからないことを言って人を笑わせる男だったろうか。
こんなに笑う男だったろうか。
記憶がジリと焼ける音がした。
しかし何かを思い出そうとする度に男が顔を寄せて来る。
乱暴に振り払った矢先、小さな声が聞こえた。
聞き返すと、男はニヤニヤ笑ったまま何も答えず片腕を上げて去っていく。
もうしばらく会うこともないのだろうと――思った翌日、ピノコへのプレゼントを
山ほど抱えた男が現れるとは思っても見なかった。
「ライバルだとばれると面倒だからね」
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