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『ごめんね忙しいのに。正守、ちょっといい?』
「ああ、少し待って」
皆が遊ぶ縁側から部屋へ戻る。
障子を閉めて結界を張り、賑やかな外の音を遮断した。
「いいよ」
『この間利守に聞いたんだけど、良守と喧嘩したんだって?』
ひゅっと喉が鳴った気がした。
この一瞬で汗がにじみ、握りしめていた手を開くと、溜め息に聞こえるように息を吐き出した。
「少しね。大事じゃないよ」
『そう?あ、そうだ良守に携帯教えてないんだって?』
「え?どうだろう。そうだったかな」
『よく会うから必要なかったのかな?良守が知らないって言うから』
「うん」
『正守に電話して話してみなよ、って言ったら、知らないって言うんだ』
「・・・」
『利守も僕も知ってるから教えようかって言うんだけどいらないって。本当に喧嘩なの?』
「うん、ちょっとした喧嘩だよ、父さん」
『そうかあ。・・・良守、反抗期かなあ』
忙しいところありがとう、そう言った父はいつもどおり心配を隠そうともしない声だった。
今時分は晩御飯の準備で忙しいはずなのに、わざわざこっちが落ち着く時間を選んで電話をかけてくるのだから弟の様子がおかしいのだろう。
いつものことだけれど。
会いたいと思ったら会いに行っていた。
だから番号なんて教えた記憶がない。
障子を開けると、相変わらず子どもたちが騒いでいた。
ちょうど影宮が帰ったところらしく、ちょうどいいと思い声をかける。
「少しいいか」
「はい」
「良守なんだが」
「やっぱり調子悪いんですか?」
「やっぱり?」
「あー、えっと」
「言葉を選ばなくていいぞ」
「そうですか?それならまあ、一言で言うと変です。いつも変なことはしますけど、悩んでるとか考えてると言うよりは空っぽのような。あ、でも暗い、あれはなんか見たことがあるような」
そう言いながら顔を上げた女顔が強張ったのを見て、なるほど、と思う。
「俺みたいか」
「えーっと、あ、いやでも今より少し前のもっとえげつないってすみません、あの」
「いや、わかった。悪かったな。ちょっと出かけてくるよ」
廊下に腰掛けていた右腕に声をかける。
「どちらへ?」
「散歩」
「わかりました」
刃鳥はこういう時に根掘り葉掘り聞こうとしない。
一人で抱え込むなと言ってはいたけれど。
空へ上がり、実家へ向けて動き出すと、行く手の遠くにぽつんとした点が見えた。
視認してから一度止まり、敵意や動きがないことを確信する。
ほんの少し近づいただけでそれがなんだかわかった。
小さな結界の上にあぐらをかいて、頬杖をついて、ここから横顔はぼうっと町並みを見下ろしている。
家からはだいぶ離れている。
もしかしたら夜行へ来るところだったのかもしれない。
「良守」
弟は横目でちらりと見ただけで、すぐにまたどことも言えない場所へ視線を戻した。
「父さんが心配してた」
「・・・おー」
「なあ、携帯の番号、いるか」
「いらねー」
取り付く島がない。
無理してそうしているのかと横顔を眺めるが、表情がない。
視線の先を探して、頭を掻いて、再び弟に視線を戻すと、目が合った。
似合わない、暗い目をしていた。
その目の暗さに自分を見て、身震いせずにはいられない歓喜に襲われた。
嫉妬。羨望。破壊衝動。何かの塊。あの頃の自分を構成していたものはたくさんあった。
弟はなにを孕んでその目をしているのか、知りたくもあったし知ってはいけないことにも見えた。
「なあ、聞いていいか」
「なんだ?」
「刃鳥さんかと思ったんだけど、もしかして夜未さん?」
「なにが?」
「アンタの好きな」
また喉が鳴った気がした。
弟の唇が小さく動いたから、何を言ったかはわかった。
ただ声は風で聞こえなかったから、それを利用した。
「・・・なんだって?」
「ちゃんと言・・・聞こえなかったなら、いい」
一瞬荒げた声と高まった目の力を一瞬で収め、弟はまた視線を戻した。
「アンタが」
「うん?」
「ずっと、アンタは来ると思ってたから、番号聞かなかったんだ」
番号、教えて。
風に飛ばされて聞こえなければよかったのに、今の呟きはよく聞こえてしまった。
差し出された掌にはもうなにも描かれていない。
初めて弟に衝動をぶつけたとき、それは愛ではなかった。
愛だったらきっと、股から血を流し押さえられた跡が残る体を見て懺悔しただろうし、二度三度と、同じように抱くことは無かっただろう。
幾度見ても己の掌は白く、押さえ付けた弟の掌には証があった。
「あのとき、アンタに抱きつかなければ良かったな」
番号が羅列されたメモを見た弟が、またボソリと呟いた。
その、あのときとはいつだろうと考えるまでもなかった。
紛れもなくあの日だ。
立ったまま正面から犯したらうまく入らず、腕を放して足を持ち上げたら、しがみつくものを探した弟の腕が俺の袂を捕まえた。
そう言えば最中に初めて目が合ったのもあのときだ。
泣きながら俺を見上げ、開いた唇が俺の名前を呼ぼうとしたので、塞いだ。
たぶん直前まで飲んでいたのであろう珈琲牛乳であろう甘い味がした。
腰を動かすと口の中で悲鳴が聞こえた、あの日だ。
あの日から、なにかが変わったのだ。
でもきっと、愛とかそんなものではない。
「そうだな」
不意に名前を呼ばれ、いつの間にか町を見ていた顔を戻すと、弟は笑っていた。
「じゃあな」
その目にあった暗さが消えていた。
それに気がつくのは、弟の姿が完全に見えなくなるまでそこに立ちすくんでいたことに気がつくのと同時だった。
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