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「くっそ」
 
きれいとは言えない言葉が漏れた。
対照的に、ガラス越しに見える秋名の山はそろそろ紅葉が降りてくる季節で、うっすらと色づき美しい。
闇が降りたこの時間、それは全く彼の目には入らないのだが。
しかしそんな時期のおかげで、昼間や夕方まではそこそこの車が通る。
今は本来ならば滅多に車が通らない時間ではあるが、過日のハチロクを見て刺激された地元チームが、のろのろと峠を下って行った。
この30分で5台だ。
その中に当然ながら目当ての車はいない。
溜息をつき、彼は帰宅を決意した。
 
「――!」
 
一昨日聞いた音がして、彼は咄嗟にサイドミラーを交互に見やる。
真っ暗なミラーは何も映していなかった。
舌打ちをする。
 
昨日の夕方、少年は一昨日のことなどなかったかのように彼を迎えた。
つまり、ぼうっとしたようなちょっと不機嫌そうな、感情の読めない顔にやる気のない声だ。
それを聞いて彼の肩の力が抜けた。
あのことなんだが、と尻すぼみで口に出すが、表情を変えないまま少年は彼を見返す。
二の句が次げなくて、結局なんでもねえ、と呟けば、
眠そうな顔に、訝しげな表情が浮かぶ。
「あんた前からおかしいと思ってたけどやっぱりおかしいな」
という言葉が少し突き出された唇から出てきた。
良くも悪くも、期待していた言葉ではなかった。
うるせえと捨て台詞を残してその場を立ち去ったものの、夜になってやはり焦れて、少年の実家へ電話をかけた。
少年は電話に出なかった。
代わりに出た父親と少し話して、電話を切ったが、胸のしこりはそのままの大きさで居座っていた。
 
翌日――つまり今日――の夜になると再び胸がざわつき始めた。
治めるために車に乗ったものの、いつの間にか秋名を走っている。
それならばいっそのことと開き直り、峠へ向かおうとした矢先に目の前を走り屋仕様の車が――先ほどので5台――通り過ぎた。
もしかしたらそこにあの少年がいるのではないかという期待を込めて、山の上から光がちらちらと降りてくる度に彼はじっと外を睨んでいた。
そして、幻聴。
いくら睨んでも何も映さないサイドミラーから目を離し、時計を見る。
時は日を変えようとしていた。
 
本人にもう一度聞くしかないのではないか。
そんな思いが頭をよぎる。
でもそれも格好がつかない。
それはただプライドの問題だ。
 
ステアリングを握りなおす。
これから家に帰っても眠れそうにない。
サイドミラーにあのハチロクが映った気がして、その度に気が散って正直頭も痛い。
そもそもハチロクは現在修理中で走っているわけもないのだ。
彼は路肩に車を止めて、ステアリングの上に両腕を組み額を乗せた。
やはり溜息が漏れた。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
自分の名前が囁かれた気がして、彼は一瞬手を止めた。
すぐに気を取り直して自販機のボタンを押す。
出てきたペットボトルをつまみ出し、車へと戻った。
ひっそりと立つ数本の電灯に仄かに照らされた彼の愛車は、夜中でも目立つ黄色をしている。
乗り込み、ドアを閉め、シートにもたれかかった。
まだ眠気は来ない。
むしろ段々興奮してきている気さえする。
あと1時間もすれば、待ち人がここを通るからだ。
手持ち無沙汰に携帯をいじる。
携帯でちまちまと遊ぶ趣味などないので、電話帳を眺めるだけだ。
つい目に留まった文字に手を止めて、それからぐしゃりと頭を掻く。
携帯をナビシートに放り出して、彼にしては珍しくボーっと目の前の景色を眺めた。
 
数台の車が止めてあり、そのそばに数人の男が立っている。
ちらちらとこちらを見ている男もいる。
そんなのには慣れている。気にならない。
その男達の向こう側の道を注視したい彼にとって、男達は邪魔な存在だ。
ふと時計を見た。
先ほどからまだ2分と経っていなかった。
 
その時、聞き覚えのある音がした。
ハッとして視線を動かすが、景色は何も変わっていない。
舌打ちをして、そして右手で作った拳をステアリングに叩き込もうとして、止めた。
彼自身、限界が手に届くところにあることを感じていた。
 
まだ空は暗い。
だがあと数分もすれば、東の空が少しずつ染まってくる。
ぼーっと目の前の光景を見続けていた彼の耳に、ずっと聞こえていた車の音が一際大きくなって響く。
ハッとしてシートから背を離した彼の10mほど先を、左から右へとインプレッサが走り抜けて行った。
一瞬だった。
普段とは違う車なのに、それが目当ての人間を乗せた車なのだと一目でわかる。
余韻を残して音が消えたとき、彼はシートに背を預けて目を閉じた。
急激に睡魔が襲ってくる。
彼はすぐに意識を手放した。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
聞きなれた音が再び聞こえて、しかしすぐに止まった。
またあの耳鳴りか、と少し浮上した意識が呟く。
再びまどろみの中へ落ちていく矢先に、コンコンと遠慮がちな音が聞こえ、彼の眉を動かした。
 
「あの・・・寝てるんですか?」
 
聞き覚えのある声がする。
この声は、
 
「藤原!?」
「うわっ」
 
突然目を開け体を起こした彼に、ドア越しに彼を覗き込んでいた少年が後ずさった。
慌てて車を降り、ラフな格好をした少年――よほど驚いたのか、口が開いたままになっている――の前に立った。
 
「青ざめて死んだような顔をしてましたよ。驚かせないでください」
 
また少し唇を尖らせるような、どことなく拗ねたような顔で少年が言った。
ああ、と返事をして、けれども何を話せばいいか――彼が本当に話したいことはひとつしかないのだが――わからず、
けれども車から降りて立った手前すぐに立ち去ることも出来ず、彼は頭の後ろをさすりながら視線を泳がせた。
 
「この間のことなんですケド」
「え・・・」
 
突然の核心を突いた言葉に、彼の心臓が跳ね上がった。
耳鳴りがする。
少年が何かを話しているのだが、耳鳴りでよく聞き取れない。
いや、聞こえているのだ。
聞こえてはいるのだが、脳が理解に追いつかない。
 
「・・・聞いてます?」
 
明らかにむすっとした表情で少年が問うた。
彼は頭が理解する前に頷いた。
頷いて、腕を伸ばした。
身を捩った少年がその腕をかわして、じゃ、と言ってインプレッサに乗り込んだ。
エンジン音が静かな山に響き、一度も振り返ることのなかった少年の横顔も車も見えなくなってから、彼の脳に、
 
「嫌じゃないですよ」
「自分でもよくわからないですケド」
「とりあえずどっか遊びに行ったりする分には」
「また電話してください。オレ、あんたの家の電話知らないから」
 
という言葉が響いた。
 
突然燃えるように熱くなった顔と体を慌てて車に押し込めて、エンジンをかけた。
アクセルを踏み込み、慣れた家路を急ぐ。
どう帰って来たのかさえよく覚えていない。
とりあえず帰宅した途端に出会った兄に、
 
「オレ、藤原と付き合うことになった!」
 
と大声で報告してから自室へと戻り、そして、寝た。
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